た。宿へ着いたとき、彼は川縁《かわべり》の欄干《らんかん》に両手を置いて、眼の下の広い流をじっと眺《なが》めていた。
「どうした。心持でも悪いか」と自分は後から聞いた。彼は後を向かなかった。けれども「いいや」と答えた。「ここへ来てこの河を見るまでこの室《へや》の事をまるで忘れていた」
そういって、彼は依然として流れに向っていた。自分は彼をそのままにして、麻の座蒲団《ざぶとん》の上に胡坐《あぐら》をかいた。それでも待遠しいので、やがて袂《たもと》から敷島《しきしま》の袋を出して、煙草を吸い始めた。その煙草が三分の一|煙《けむ》になった頃、三沢はようやく手摺《てすり》を離れて自分の前へ来て坐《すわ》った。
「病院で暮らしたのも、つい昨日今日のようだが、考えて見ると、もうだいぶんになるんだね」と云って指を折りながら、日数《ひかず》を勘定《かんじょう》し出した。
「三階の光景が当分眼を離れないだろう」と自分は彼の顔を見た。
「思いも寄らない経験をした。これも何かの因縁《いんねん》だろう」と三沢も自分の顔を見た。
彼は手を叩《たた》いて、下女を呼んで今夜の急行列車の寝台《しんだい》を注文した
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