あった。自分はこの死んだような静かさのために、かえって神経を焦《い》らつかせて、「あの女」の室から三沢の出るのを待ちかねた。
やがて三沢はのっそりと出て来た。室の敷居を跨《また》ぐ時、微笑しながら「御邪魔さま。大勉強だね」と看護婦に挨拶《あいさつ》する言葉だけが自分の耳に入った。
彼は上草履《うわぞうり》の音をわざとらしく高く鳴らして、自分の室に入るや否や、「やっと済んだ」と云った。自分は「どうだった」と聞いた。
「やっと済んだ。これでもう出ても好い」
三沢は同じ言葉を繰返すだけで、その他には何にも云わなかった。自分もそれ以上は聞き得なかった。ともかくも退院の手続を早くする方が便利だと思って、そこらに散らばっているものを片づけ始めた。三沢も固《もと》よりじっとしてはいなかった。
三十一
二人は俥《くるま》を雇《やと》って病院を出た。先へ梶棒《かじぼう》を上げた三沢の車夫が余り威勢よく馳《か》けるので、自分は大きな声でそれを留めようとした。三沢は後《うしろ》を振り向いて、手を振った。「大丈夫、大丈夫」と云うらしく聞こえたから、自分もそれなりにして注意はしなかっ
前へ
次へ
全520ページ中90ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング