るという患者の承諾をもたらした。三沢は黙って立ち上った。
 彼は自分の顔も見ず、また看護婦の顔も見ず、黙って立ったなり、すっと「あの女」の室の中へ姿を隠した。自分は元の座に坐《すわ》って、ぼんやりその後影《うしろかげ》を見送った。彼の姿が見えなくなってもやはり空《くう》に同じ所を見つめていた。冷淡なのは看護婦であった。ちょっと侮蔑《あなどり》の微笑《びしょう》を唇《くちびる》の上に漂《ただよ》わせて自分を見たが、それなり元の通り柱に背を倚《よ》せて、黙って読みかけた書物をまた膝《ひざ》の上にひろげ始めた。
 室の中は三沢の入った後も彼の入らない前も同じように静《しずか》であった。話し声などは無論聞こえなかった。看護婦は時々不意に眼を上げて室の奥の方を見た。けれども自分には何の相図《あいず》もせずに、すぐその眼を頁《ページ》の上に落した。
 自分はこの三階の宵《よい》の間《ま》に虫の音らしい涼しさを聴《き》いた例《ためし》はあるが、昼のうちにやかましい蝉《せみ》の声はついぞ自分の耳に届いた事がない。自分のたった一人で坐っている病室はその時明かな太陽の光を受けながら、真夜中よりもなお静かで
前へ 次へ
全520ページ中89ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング