の手から金を受取った。自分は渡した金の高を注意して、「好いか」と聞いた。それでも彼はただうんと云っただけである。
彼はじっと「あの女」の室《へや》の方を見つめた。時間の具合で、見舞に来たものの草履《ぞうり》は一足も廊下の端《はじ》に脱ぎ棄《す》ててなかった。平生から静過ぎる室の中は、ことに寂寞としていた。例の美くしい看護婦は相変らず角の柱に倚《よ》りかかって、産婆学の本か何か読んでいた。
「あの女は寝ているのかしら」
彼は「あの女」の室《へや》へ入るべき好機会を見出しながら、かえってその眠を妨《さまた》げるのを恐れるように見えた。
「寝ているかも知れない」と自分も思った。
しばらくして三沢は小さな声で「あの看護婦に都合を聞いて貰おうか」と云い出した。彼はまだこの看護婦に口を利《き》いた事がないというので、自分がその役を引受けなければならなかった。
看護婦は驚いたようなまたおかしいような顔をして自分を見た。けれどもすぐ自分の真面目な態度を認めて、室の中へ入って行った。かと思うと、二分と経《た》たないうちに笑いながらまた出て来た。そうして今ちょうど気分の好いところだからお目にかかれ
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