いて、そこに挟《はさ》んであった札《さつ》を自分の手の上に乗せた。
「ではどうぞちょっと御改ためなすって」
 自分は形式的にそれを勘定した上、「確《たしか》に。――どうもとんだ御手数《おてかず》をかけました。御暑いところを」と礼を述べた。実際急いだと見えてお兼さんは富士額の両脇を、細かい汗の玉でじっとりと濡《ぬ》らしていた。
「どうです、ちっと上って涼んでいらしったら」
「いいえ今日《こんにち》は急ぎますから、これで御免《ごめん》を蒙《こうむ》ります。御病人へどうぞよろしく。――でも結構でございましたね、早く御退院になれて。一時は宅でも大層心配致しまして、よく電話で御様子を伺ったとか申しておりましたが」
 お兼さんはこんな愛想《あいそ》を云いながら、また例のクリーム色の洋傘《こうもり》を開いて帰って行った。

        三十

 自分は少し急《せ》き込んでいた。紙幣《しへい》を握ったまま段々を馳《か》け上るように三階まで来た。三沢は平生よりは落ちついていなかった。今火を点《つ》けたばかりの巻煙草《まきたばこ》をいきなり灰吹《はいふき》の中に放り込んで、ありがとうともいわずに、自分
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