悪くない入院前の「あの女」の顔が描《えが》かれるだけであった。それで二人共あの女はもうむずかしいだろうと話し合っていた。そうして実際は双方共死ぬとは思わなかったのである。
同時にいろいろな患者が病院を出たり入ったりした。ある晩「あの女」と同じくらいな年輩の二階にいる婦人が担架《たんか》で下へ運ばれて行った。聞いて見ると、今日《きょう》明日《あす》にも変がありそうな危険なところを、付添の母が田舎《いなか》へ連れて帰るのであった。その母は三沢の看護婦に、氷ばかりも二十何円とかつかったと云って、どうしても退院するよりほかに途《みち》がないとわが窮状を仄《ほのめ》かしたそうである。
自分は三階の窓から、田舎へ帰る釣台を見下《みおろ》した。釣台は暗くて見えなかったが、用意の提灯《ちょうちん》の灯《ひ》はやがて動き出した。窓が高いのと往来が狭いので、灯は谷の底をひそかに動いて行くように見えた。それが向うの暗い四つ角を曲ってふっと消えた時、三沢は自分を顧《かえり》みて「帰り着くまで持てば好いがな」と云った。
二十五
こんな悲酸《ひさん》な退院を余儀なくされる患者があるかと思
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