のが潜《ひそ》んでいるかのように。
しばらくすると、女の部屋で微《かす》かにげえげえという声がした。
「そら吐いている」と三沢が眉《まゆ》をひそめた。やがて看護婦が戸口へ現れた。手に小さな金盥《かなだらい》を持ちながら、草履《ぞうり》を突っかけて、ちょっと我々の方を見たまま出て行った。
「癒《なお》りそうなのかな」
自分の眼には、今朝《けさ》腮《あご》を胸に押しつけるようにして、じっと腰をかけていた美くしい若い女の顔がありありと見えた。
「どうだかね。ああ嘔《は》くようじゃ」と三沢は答えた。その表情を見ると気の毒というよりむしろ心配そうなある物に囚《とら》えられていた。
「君は本当にあの女を知っているのか」と自分は三沢に聞いた。
「本当に知っている」と三沢は真面目《まじめ》に答えた。
「しかし君は大阪へ来たのが今度始めてじゃないか」と自分は三沢を責めた。
「今度来て今度知ったのだ」と三沢は弁解した。「この病院の名も実はあの女に聞いたのだ。僕はここへ這入《はい》る時から、あの女がことによるとやって来やしないかと心配していた。けれども今朝君の話を聞くまではよもやと思っていた。僕はあの女
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