告していた。すると客は、なにおれの前へ出た時だけ御世辞《おせじ》を云ってくれりゃそれで嬉《うれ》しいんだ、蔭で何と云ったって聞えないから構わないと答えていた。ある時はこれも芸者が何か真面目《まじめ》な話を持ち込んで来たのを、今度は客の方でごまかそうとして、その芸者から他《ひと》の話を「じゃん、じゃか、じゃん」にしてしまうと云って怒られていた。
自分はこんな事で安眠を妨害されて、実際迷惑を感じた。
十七
そんなこんなで好く眠られなかった朝、もう看病は御免蒙《ごめんこうむ》るという気で、病院の方へ橋を渡った。すると病人はまだすやすや眠っていた。
三階の窓から見下《みおろ》すと、狭い通なので、門前の路《みち》が細く綺麗《きれい》に見えた。向側は立派な高塀《たかべい》つづきで、その一つの潜《くぐ》りの外へ主人《あるじ》らしい人が出て、如露《じょうろ》で丹念《たんねん》に往来を濡《ぬ》らしていた。塀の内には夏蜜柑《なつみかん》のような深緑の葉が瓦《かわら》を隠すほど茂っていた。
院内では小使が丁字形《ていじけい》の棒の先へ雑巾《ぞうきん》を括《くく》り付けて廊下をぐん
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