されなかったのである。自分はこれでは前途遼遠《ぜんとりょうえん》だと思った。同時にその膳に向って薄い粥《かゆ》を啜《すす》る彼の姿が変に痛ましく見えた。自分が席を外《はず》して、つい近所の洋食屋へ行って支度《したく》をして帰って来ると、彼はきっと「旨《うま》かったか」と聞いた。自分はその顔を見てますます気の毒になった。
「あの家《うち》はこの間君と喧嘩《けんか》した氷菓子《アイスクリーム》を持って来る家だ」
三沢はこういって笑っていた。自分は彼がもう少し健康を回復するまで彼の傍《そば》にいてやりたい気がした。
しかし宿へ帰ると、暑苦しい蚊帳《かや》の中で、早く涼しい田舎《いなか》へ行きたいと思うことが多かった。この間の晩女と話をして人の眠を妨《さまた》げた隣の客はまだ泊っていた。そうして自分の寝ようとする頃に必ず酒気《しゅき》を帯びて帰って来た。ある時は宿で酒を飲んで、芸者を呼べと怒鳴《どな》っていた。それを下女がさまざまにごまかそうとしてしまいには、あの女はあなたの前へ出ればこそ、あんな愛嬌《あいきょう》をいうものの、蔭《かげ》ではあなたの悪口ばかり並べるんだから止《や》めろと忠
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