て、彼は初めから居間へは這入らなかった。ただ袴《はかま》と羽織を脱《ぬ》ぎ棄《す》てたなり、そこへ坐《すわ》ったまま、長く自分達を相手に喋舌《しゃべ》っていた。
 久しく住み馴《な》れた自分の家も、こうしてたまに来て見ると、多少忘れ物でも思い出すような趣《おもむき》があった。出る時はまだ寒かった。座敷の硝子戸《ガラスど》はたいてい二重に鎖《とざ》されて、庭の苔《こけ》を残酷に地面から引き剥《はが》す霜《しも》が一面に降っていた。今はその外側の仕切《しきり》がことごとく戸袋の中《うち》に収《おさ》められてしまった。内側も左右に開かれていた。許す限り家の中と大空と続くようにしてあった。樹《き》も苔《こけ》も石も自然から直接に眼の中へ飛び込んで来た。すべてが出る時と趣を異《こと》にしていた。すべてが下宿とも趣を異にしていた。
 自分はこういう過去の記念のなかに坐って、久しぶりに父母《ふぼ》や妹や嫂といっしょに話をした。家族のうちでそこにいないものはただ兄だけであった。その兄の名は先刻《さっき》からまだ一度も誰の会話にも上《のぼ》らなかった。自分はその日彼がKさんの披露会に呼ばれたという事を聞
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