。――御前一郎に近頃会った事はあるまい」
「ええ実は下宿をする時|挨拶《あいさつ》をしたぎりです」
「それ見ろ。ところが今日はあいにく一郎が留守《るす》だがね。御父さんが上野の披露会の事を忘れていたのが悪かったけれども」
 自分は父に伴《つ》れられて、とうとう番町の門を潜《くぐ》った。

        十

 座敷に這入《はい》った時、母は自分の顔を見て、「おや珍らしいね」と云っただけであった。自分はほとんど権柄《けんぺい》ずくでここへ引っ張られて来ながらも、途々《みちみち》父の情《なさけ》をありがたく感じていた。そうして暗に家に帰ってから母に会う瞬間の光景を予想していた。その予想がこの一言《いちごん》で打ち崩《くず》されたのは案外であった。父は家内の誰にも打ち合せをせずに、全く自分一人の考えで、この不心得な息子に親切を尽してくれたのである。お重は逃げた飼犬を見るような眼つきで自分を見た。「そら迷子《まいご》が帰って来た」と云った。嫂《あによめ》はただ「いらっしゃい」と平生の通り言葉寡《ことばずくな》な挨拶をした。この間の晩一人で尋ねて来た事は、まるで忘れてしまったという風に見えた。
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