くて暑い空を、恐る恐る仰いで暮らした大阪の病院を憶《おも》い起すと、当時の彼と今の自分とは、ほとんど地を換えたと一般であった。
彼はつい近頃父を失った結果として、当然一家の主人に成り済ましていた。Hさんを通してB先生から彼を使いたいと申し込まれた時も、彼はまず己《おの》れを後《のち》にするという好意からか、もしくは贅沢《ぜいたく》な択好《よりごの》みからか、せっかくの位置を自分に譲ってくれた。
自分は電灯で照された彼の室を見廻して、その壁を隙間《すきま》なく飾っている風雅なエッチングや水彩画などについて、しばらく彼と話し合った。けれどもどういうものか、芸術上の議論は十分|経《た》つか経たないうちに自然と消えてしまった。すると三沢は突然自分に向って、「時に君の兄さんだがね」と云い出した。自分はここでもまた兄さんかと驚いた。
「兄がどうしたって?」
「いや別にどうしたって事もないが……」
彼はこれだけ云ってただ自分の顔を眺めていた。自分は勢い彼の言葉とB先生の今朝の言葉とを胸の中《うち》で結びつけなければならなかった。
「そう半分でなく、話すなら皆《みん》な話してくれないか。兄がいっ
前へ
次へ
全520ページ中329ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング