れども、子供のうちから兄といっしょに育った自分には、彼の脳天を動きつつある雲の往来《ゆきき》がよく解った。
自分は助け船が不意に来た嬉《うれ》しさを胸に蔵《かく》して兄の室《へや》を出た。出る時嫂は一面識もない眼下のものに挨拶でもするように、ちょっと頭を下げて自分に黙礼をした。自分が彼女からこんな冷淡な挨拶を受けたのもまた珍らしい例であった。
二十九
二三日してから自分はとうとう家を出た。父や母や兄弟の住む、古い歴史をもった家を出た。出る時はほとんど何事をも感じなかった。母とお重が別れを惜《おし》むように浮かない顔をするのが、かえって厭《いや》であった。彼らは自分の自由行動をわざと妨げるように感ぜられた。
嫂《あによめ》だけは淋《さみ》しいながら笑ってくれた。
「もう御出掛。では御機嫌《ごきげん》よう。またちょくちょく遊びにいらっしゃい」
自分は母やお重の曇った顔を見た後《あと》で、この一口の愛嬌を聞いた時、多少の愉快を覚えた。
自分は下宿へ移ってからも有楽町の事務所へ例の通り毎日|通《かよ》っていた。自分をそこへ周旋してくれたものは、例の三沢であった。事
前へ
次へ
全520ページ中325ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング