ところへその嫂が兄の平生着《ふだんぎ》を持って、芳江の手を引いて、例のごとく階段を上《あが》って来た。
扉《ドア》の敷居に姿を現した彼女は、風呂から上りたてと見えて、蒼味《あおみ》の注《さ》した常の頬に、心持の好いほど、薄赤い血を引き寄せて、肌理《きめ》の細かい皮膚に手触《てざわり》を挑《いど》むような柔らかさを見せていた。
彼女は自分の顔を見た。けれども一言《ひとこと》も自分には云わなかった。
「大変遅くなりました。さぞ御窮屈でしたろう。あいにく御湯へ這入《はい》っていたものだから、すぐ御召《おめし》を持って来る事ができなくって」
嫂はこう云いながら兄に挨拶《あいさつ》した。そうして傍《そば》に立っていた芳江に、「さあお父さんに御帰り遊ばせとおっしゃい」と注意した。芳江は母の命令《いいつけ》通り「御帰り」と頭を下げた。
自分は永らくの間、嫂が兄に対してこれほど家庭の夫人らしい愛嬌《あいきょう》を見せた例《ためし》を知らなかった。自分はまたこの愛嬌に対して柔《やわら》げられた兄の気分が、彼の眼に強く集まった例も知らなかった。兄は人の手前|極《きわ》めて自尊心の強い男であった。け
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