蛮な声を出すと、お兼さんは眉《まゆ》をひそめながら、嬉《うれ》しそうな眼つきをするのが常であったから、お兼さんは旦那の酔《よ》うのが嫌《きら》いなのではなくって、酒に費用《ついえ》のかかるのが嫌いなのだろうと、自分は推察していた。
 自分はせっかくの好意だけれども宝塚行を断《ことわ》った。そうして腹の中で、あしたの朝岡田の留守に、ちょっと電車に乗って一人で行って様子を見て来《き》ようと取りきめた。岡田は「そうですか。文楽《ぶんらく》だと好いんだけれどもあいにく暑いんで休んでいるもんだから」と気の毒そうに云った。
 翌朝《よくあさ》自分は岡田といっしょに家《うち》を出た。彼は電車の上で突然自分の忘れかけていたお貞さんの結婚問題を持ち出した。
「僕はあなたの親類だと思ってやしません。あなたのお父さんやお母さんに書生として育てられた食客《しょっかく》と心得ているんです。僕の今の地位だって、あのお兼だって、みんなあなたの御両親のお蔭《かげ》でできたんです。だから何か御恩返しをしなくっちゃすまないと平生から思ってるんです。お貞さんの問題もつまりそれが動機でしたんですよ。けっして他意はないんですか
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