親からさえも、日に日に離れて行くのを眼前に見て、思わず顔を下げて自分の膝頭《ひざがしら》を見つめた。
「二郎お前もやっぱりお父さん流だよ。少しも摯実《しじつ》の気質がない」と兄が云った。
 自分は癇癪《かんしゃく》の不意に起る野蛮な気質を兄と同様に持っていたが、この場合兄の言葉を聞いたとき、毫《ごう》も憤怒の念が萌《きざ》さなかった。
「そりゃひどい。僕はとにかく、お父さんまで世間の軽薄ものといっしょに見做《みな》すのは。兄さんは独《ひと》りぼっちで書斎にばかり籠《こも》っているから、それでそういう僻《ひが》んだ観察ばかりなさるんですよ」
「じゃ例を挙《あ》げて見せようか」
 兄の眼は急に光を放った。自分は思わず口を閉じた。
「この間|謡《うたい》の客のあった時に、盲女《めくらおんな》の話をお父さんがしたろう。あのときお父さんは何とかいう人を立派に代表して行きながら、その女が二十何年も解らずに煩悶《はんもん》していた事を、ただ一口にごまかしている。おれはあの時、その女のために腹の中で泣いた。女は知らない女だからそれほど同情は起らなかったけれども、実をいうとお父さんの軽薄なのに泣いたのだ
前へ 次へ
全520ページ中301ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング