われなかった。
兄が席を立って書斎に入《い》ったのはそれからしてしばらく後《のち》の事であった。自分は耳を峙《そばだ》てて彼の上靴《スリッパ》が静《しずか》に階段を上《のぼ》って行く音を聞いた。やがて上の方で書斎の戸《ドア》がどたんと閉まる声がして、後は静になった。
東京へ帰ってから自分はこんな光景をしばしば目撃した。父もそこには気がついているらしかった。けれども一番心配そうなのは母であった。彼女は嫂《あによめ》の態度を見破って、かつ容赦の色を見せないお重を、一日も早く片づけて若い女同士の葛藤《かっとう》を避けたい気色《けしき》を色にも顔にも挙動にも現した。次にはなるべく早く嫁を持たして、兄夫婦の間から自分という厄介《やっかい》ものを抜き去りたかった。けれども複雑な世の中は、そう母の思うように旨《うま》く回転してくれなかった。自分は相変らず、のらくらしていた。お重はますます嫂を敵《かたき》のように振舞った。不思議に彼女は芳江を愛した。けれどもそれは嫂のいない留守に限られていた。芳江も嫂のいない時ばかりお重に縋《すが》りついた。兄の額には学者らしい皺《しわ》がだんだん深く刻《きざ》ま
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