「芳江は下にいるかい」
「いるでしょう。先刻《さっき》裏庭で見たようでした」
 自分は北の方の窓を開けて下を覗《のぞ》いて見た。下には特に彼女のために植木屋が拵《こしら》えたブランコがあった。しかし先刻いた芳江の姿は見えなかった。「おやどこへか行ったかな」と自分が独言《ひとりごと》を云ってると、彼女の鋭い笑い声が風呂場の中で聞えた。
「ああ湯に這入《はい》っています」
「直《なお》といっしょかい。御母さんとかい」
 芳江の笑い声の間にはたしかに、女として深さのあり過ぎる嫂《あによめ》の声が聞えた。
「姉さんです」と自分は答えた。
「だいぶ機嫌《きげん》が好さそうじゃないか」
 自分は思わずこう云った兄の顔を見た。彼は手に持っていた大きな書物で頭まで隠していたからこの言葉を発した時の表情は少しも見る事ができなかった。けれども、彼の意味はその調子で自分によく呑《の》み込めた。自分は少し逡巡《しゅんじゅん》した後《あと》で、「兄さんは子供をあやす事を知らないから」と云った。兄の顔はそれでも書物の後《うしろ》に隠れていた。それを急に取るや否や彼は「おれの綾成《あや》す事のできないのは子供ば
前へ 次へ
全520ページ中247ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング