ほどと思って、その忙しさが永く続くため、彼の心を全然そっちの方へ転換させる事ができはしまいかと念じた。嫂は平生の通り淋《さび》しい秋草のようにそこらを動いていた。そうして時々|片靨《かたえくぼ》を見せて笑った。

        五

 そのうち夏もしだいに過ぎた。宵々《よいよい》に見る星の光が夜ごとに深くなって来た。梧桐《あおぎり》の葉の朝夕風に揺ぐのが、肌に応《こた》えるように眼をひやひやと揺振《ゆすぶ》った。自分は秋に入ると生れ変ったように愉快な気分を時々感じ得た。自分より詩的な兄はかつて透《す》き通る秋の空を眺めてああ生き甲斐《がい》のある天だと云って嬉《うれ》しそうに真蒼《まっさお》な頭の上を眺めた事があった。
「兄さんいよいよ生き甲斐のある時候が来ましたね」と自分は兄の書斎のヴェランダに立って彼を顧みた。彼はそこにある籐椅子《といす》の上に寝ていた。
「まだ本当の秋の気分にゃなれない。もう少し経《た》たなくっちゃ駄目だね」と答えて彼は膝《ひざ》の上に伏せた厚い書物を取り上げた。時は食事前の夕方であった。自分はそれなり書斎を出て下へ行こうとした。すると兄が急に自分を呼び止めた
前へ 次へ
全520ページ中246ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング