労だったね、早く御休み。もうよっぽど遅いんだろう」と云った。
 時計は十二時過であった。自分はまたそっと上の寝台に登った。車室は元の通り静かになった。嫂は母が口を利き出してから、何も云わなくなった。母は自分が自分の寝台に上《のぼ》ってから、また何も云わなくなった。ただ兄だけは始めからしまいまで一言《ひとこと》も物を云わなかった。彼は聖者《しょうじゃ》のごとくただすやすやと眠っていた。この眠方《ねむりかた》が自分には今でも不審の一つになっている。
 彼は自分で時々公言するごとく多少の神経衰弱に陥っていた。そうして時々《じじ》不眠のために苦しめられた。また正直にそれを家族の誰彼に訴えた。けれども眠くて困ると云った事はいまだかつてなかった。
 富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆《さか》らって飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら、彼は前後に関係なく心持よさそうに寝ていた。
 食堂が開《あ》いて乗客の多数が朝飯《あさめし》を済ました後《のち》、自分は母を連れて昨夜以来の空腹を充《み》たすべく細い廊下を伝わって後部の方へ行った。その時母は嫂に向って、「もう好い加減に一郎を起して、い
前へ 次へ
全520ページ中238ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング