た。自分はその顔をちらりと見た時、これはどうしても行かなければ済まないなとすぐ読んだ。
「二郎、今になって違約して貰っちゃおれが困る。貴様だって男だろう」
 自分は時々兄から貴様と呼ばれる事があった。そうしてこの貴様が彼の口から出たときはきっと用心して後難を避けた。
「いえ行くんです。行くんですがお母さんが止せとおっしゃるから」
 自分がこう云ってるうちに、母がまた心配そうに三階から下りて来た。そうしてすぐ自分の傍《そば》へ寄って、
「二郎お母さんは先刻《さっき》ああ云ったけれども、よく一郎に聞いて見ると、何だか紀三井寺《きみいでら》で約束した事があるとか云う話だから、残念だが仕方ない。やっぱりその約束通りになさい」と云った。
「ええ」
 自分はこう答えて、あとは何にも云わない事にした。
 やがて母と兄は下に待っている俥《くるま》に乗って、楼前から右の方へ鉄輪《かなわ》の音を鳴らして去った。
「じゃ僕らもそろそろ出かけましょうかね」と嫂を顧みた時、自分は実際好い心持ではなかった。
「どうです出かける勇気がありますか」と聞いた。
「あなたは」と向《むこう》も聞いた。
「僕はあります」

前へ 次へ
全520ページ中180ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング