かと騒いだ。
「姉さん、芝の愛宕様《あたごさま》じゃありませんよ」と自分は云ってやった。
「だって遠眼鏡ぐらいあったって好いじゃありませんか」と嫂はまだ不足を並べていた。
 夕方になって自分はとうとう兄に引っ張られて紀三井寺《きみいでら》へ行った。これは婦人|連《れん》が昨日すでに参詣《さんけい》したというのを口実に、我々二人だけが行く事にしたのであるが、その実兄の依頼を聞くために自分が彼から誘い出されたのである。
 自分達は母の見ただけで恐れたという高い石段を一直線に上《のぼ》った。その上は平《ひら》たい山の中腹で眺望《ちょうぼう》の好い所にベンチが一つ据《す》えてあった。本堂は傍《そば》に五重の塔を控えて、普通ありふれた仏閣よりも寂《さび》があった。廂《ひさし》の最中《まんなか》から下《さが》っている白い紐《ひも》などはいかにも閑静に見えた。
 自分達は何物も眼を遮《さえぎ》らないベンチの上に腰をおろして並び合った。
「好い景色ですね」
 眼の下には遥《はるか》の海が鰯《いわし》の腹のように輝いた。そこへ名残《なごり》の太陽が一面に射して、眩《まば》ゆさが赤く頬を染めるごとくに感じ
前へ 次へ
全520ページ中169ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング