て、何かセンチメンタルな事でもいうかと思って、煙草《たばこ》を吹かしながら聴いていた。けれどもいくら待っていても、お兼さんは何とも云わなかった。岡田の声も聞こえなかった。自分は煙草を捨てて立ち上った。そうしてかなり急な階子段《はしごだん》を一段ずつ音を立てて下へ降りて行った。
三人で飯を済ました後《あと》、岡田は会社へ出勤しなければならないので、緩《ゆっく》り案内をする時間がないのを残念がった。自分はここへ来る前から、そんな事を全く予期していなかったと云って、白い詰襟姿《つめえりすがた》の彼を坐ったまま眺《なが》めていた。
「お兼、お前暇があるなら二郎さんを案内して上げるが好い」と岡田は急に思いついたような顔つきで云った。お兼さんはいつもの様子に似ず、この時だけは夫にも自分にも何とも答えなかった。自分はすぐ、「なに構わない。君といっしょに君の会社のある方角まで行って、そこいらを逍遥《ぶらつ》いて見よう」と云いながら立った。お兼さんは玄関で自分の洋傘《こうもり》を取って、自分に手渡ししてくれた。それからただ一口「お早く」と云った。
自分は二度電車に乗せられて、二度下ろされた。そうして
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