もした。三沢から何《なん》の音信《たより》のないのも気がかりであった。しかしこうして幸福な家庭の客となって、彼の消息を待つために四五日ぐずぐずしているのも悪くはないと考えた。一番どうでも好かったのは岡田のいわゆる「例の一件」であった。
翌日《よくじつ》眼が覚《さ》めると、窓の下の狭苦しい庭で、岡田の声がした。
「おいお兼とうとう絞《しぼ》りのが咲き出したぜ。ちょいと来て御覧」
自分は時計を見て、腹這《はらばい》になった。そうして燐寸《マッチ》を擦《す》って敷島《しきしま》へ火を点《つ》けながら、暗《あん》にお兼さんの返事を待ち構えた。けれどもお兼さんの声はまるで聞えなかった。岡田は「おい」「おいお兼」をまた二三度繰返した。やがて、「せわしない方ね、あなたは。今朝顔どころじゃないわ、台所が忙《いそが》しくって」という言葉が手に取るように聞こえた。お兼さんは勝手から出て来て座敷の縁側《えんがわ》に立っているらしい。
「それでも綺麗《きれい》ね。咲いて見ると。――金魚はどうして」
「金魚は泳いでいるがね。どうもこのほうはむずかしいらしい」
自分はお兼さんが、死にかかった金魚の運命につい
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