思い及んだ。
「奥さん、三沢《みさわ》という男から僕に宛《あ》てて、郵便か電報か何か来ませんでしたか。今散歩に出た後で」
「来やしないよ。大丈夫だよ、君。僕の妻はそう云う事はちゃんと心得てるんだから。ねえお兼。――好いじゃありませんか、三沢の一人や二人来たって来なくたって。二郎さん、そんなに僕の宅が気に入らないんですか。第一《だいち》あなたはあの一件からして片づけてしまわなくっちゃならない義務があるでしょう」
 岡田はこう云って、自分の洋盃《コップ》へ麦酒をゴボゴボと注《つ》いだ。もうよほど酔っていた。

        五

 その晩はとうとう岡田の家《うち》へ泊った。六畳の二階で一人寝かされた自分は、蚊帳《かや》の中の暑苦しさに堪《た》えかねて、なるべく夫婦に知れないように、そっと雨戸を開け放った。窓際《まどぎわ》を枕に寝ていたので、空は蚊帳越にも見えた。試《ためし》に赤い裾《すそ》から、頭だけ出して眺《なが》めると星がきらきらと光った。自分はこんな事をする間にも、下にいる岡田夫婦の今昔《こんじゃく》は忘れなかった。結婚してからああ親しくできたらさぞ幸福だろうと羨《うらや》ましい気
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