すがね。もし誰もそばにいない時|接吻《せっぷん》したとすると」
「だから知らんと断ってるじゃないか」
 自分は黙って考え込んだ。
「いったい兄さんはどうして、そんな話を知ってるんです」
「Hから聞いた」
 Hとは兄の同僚で、三沢を教えた男であった。そのHは三沢の保証人だったから、少しは関係の深い間柄《あいだがら》なんだろうけれども、どうしてこんな際《きわ》どい話を聞き込んで、兄に伝えたものだろうか、それは彼も知らなかった。
「兄さんはなぜまた今日までその話を為《し》ずに黙っていたんです」と自分は最後に兄に聞いた。兄は苦《にが》い顔をして、「する必要がないからさ」と答えた。自分は様子によったらもっと肉薄して見ようかと思っているうちに汽車が着いた。

        十一

 停車場《ステーション》を出るとすぐそこに電車が待っていた。兄と自分は手提鞄《てさげかばん》を持ったまま婦人を扶《たす》けて急いでそれに乗り込んだ。
 電車は自分達四人が一度に這入《はい》っただけで、なかなか動き出さなかった。
「閑静な電車ですね」と自分が侮《あな》どるように云った。
「これなら妾達《わたしたち》の荷物
前へ 次へ
全520ページ中131ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング