は」
「知らないわ」
 嫂《あによめ》の廊下伝いに梯子段《はしごだん》を上《のぼ》る草履《ぞうり》の音がはっきり聞こえた。
 廊下の前は中庭で八つ手の株が見えた。自分はその暗い庭を前に眺《なが》めて、番頭に背中を流して貰《もら》っていた。すると入口の方から縁側《えんがわ》を沿って、また活溌《かっぱつ》な足音が聞こえた。
 そうして詰襟《つめえり》の白い洋服を着た岡田が自分の前を通った。自分は思わず、「おい君、君」と呼んだ。
「や、今お湯、暗いんでちっとも気がつかなかった」と岡田は一足《ひとあし》後戻りして風呂を覗《のぞ》き込みながら挨拶《あいさつ》をした。
「あなたに話がある」と自分は突然云った。
「話が? 何です」
「まあ、お入《はい》んなさい」
 岡田は冗談《じょうだん》じゃないと云う顔をした。
「お兼は来ませんか」
 自分が「いいえ」と答えると、今度は「皆さんは」と聞いた。自分がまた「みんないますよ」というと、不思議そうに「じゃ今日はどこへも行かなかったんですか」と聞いた。
「行ってもう帰って来たんです」
「実は僕も今会社から帰りがけですがね。どうも暑いじゃあありませんか。――と
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