て、御母さんには解らないよ、お前のいう事は。気の毒なら、手ぶらで見舞に行くだけの事じゃないか。もし手ぶらできまりが悪ければ、菓子折の一つも持って行きゃあたくさんだね」
自分はしばらく黙っていた。
「よし三沢さんにそれだけの義理があったにしたところでさ。何もお前が岡田なんぞからそれを借りて上げるだけの義理はなかろうじゃないか」
「じゃよござんす」と自分は答えた。そうして立って下へ行こうとした。兄は湯に入っていた。嫂《あによめ》は小さい下の座敷を借りて髪を結わしていた。座敷には母よりほかにいなかった。
「まあお待ちよ」と母が呼び留めた。「何も出して上げないと云ってやしないじゃないか」
母の言葉には兄一人でさえたくさんなところへ、何の必要があって、自分までこの年寄を苛《いじ》めるかと云わぬばかりの心細さが籠《こも》っていた。自分は母のいう通り元の席に着いたが、気の毒でちょっと顔を上げ得なかった。そうしてこの無恰好《ぶかっこう》な態度で、さも子供らしく母から要《い》るだけの金子《きんす》を受取った。母が一段声を落して、いつものように、「兄さんにはないしょだよ」と云った時、自分は不意に名状し
前へ
次へ
全520ページ中121ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング