兄にはまたすこぶる気に入らなかった。些細《ささい》な事から兄はよく機嫌《きげん》を悪くした。そうして明るい家の中《うち》に陰気な空気を漲《みな》ぎらした。母は眉《まゆ》をひそめて、「また一郎の病気が始まったよ」と自分に時々|私語《ささや》いた。自分は母から腹心の郎党として取扱われるのが嬉しさに、「癖なんだから、放《ほう》っておおきなさい」ぐらい云って澄ましていた時代もあった。兄の性質が気むずかしいばかりでなく、大小となく影でこそこそ何かやられるのを忌《い》む正義の念から出るのだという事を後《あと》から知って以来、自分は彼に対してこんな軽薄な批評を加えるのを恥《は》ずるようになった。けれども表向《おもてむき》兄の承諾を求めると、とうてい行われにくい用件が多いので、自分はつい機会《おり》を見ては母の懐《ふところ》に一人|抱《だ》かれようとした。
 母は自分が三沢のために岡田から金を借りた顛末《てんまつ》を聞いて驚いた顔をした。
「そんな女のためにお金を使う訳がないじゃないか、三沢さんだって。馬鹿らしい」と云った。
「だけど、そこには三沢も義理があるんだから」と自分は弁解した。
「義理義理っ
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