かった。庭が狭いのと塀《へい》が高いので、日の射し込む余地もなかったが、その代り風の通る隙間《すきま》にも乏しかった。ある時は湿《しめ》っぽい茶座敷の中で、四方から焚火《たきび》に焙《あぶ》られているような苦しさがあった。自分は夜通《よどお》し扇風器をかけてぶうぶう鳴らしたため、馬鹿な真似をして風邪《かぜ》でもひいたらどうすると云って母から叱られた事さえあった。
大阪を立とうという兄の意見に賛成した自分は、有馬《ありま》なら涼しくって兄の頭によかろうと思った。自分はこの有名な温泉をまだ知らなかった。車夫が梶棒《かじぼう》へ綱を付けて、その綱の先をまた犬に付けて坂路を上《のぼ》るのだそうだが、暑いので犬がともすると渓河《たにがわ》の清水《しみず》を飲もうとするのを、車夫が怒《いか》って竹の棒でむやみに打擲《うちたた》くから、犬がひんひん苦しがりながら俥《くるま》を引くんだという話を、かつて聞いたまましゃべった。
「厭《いや》だねそんな俥に乗るのは、可哀想《かわいそう》で」と母が眉《まゆ》をひそめた。
「なぜまた水を飲ませないんだろう。俥が遅れるからかね」と兄が聞いた。
「途中で水を飲む
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