てから母はようやく口を開いた。
「でも貞だけでもきまってくれるとお母さんは大変|楽《らく》な心持がするよ。後《あと》は重《しげ》ばかりだからね」
「これもお父さんの御蔭《おかげ》さ」と兄が答えた。その時兄の唇《くちびる》に薄い皮肉の影が動いたのを、母は気がつかなかった。
「全くお父さんの御蔭に違ないよ。岡田が今ああやってるのと同じ事さ」と母はだいぶ満足な体《てい》に見えた。
 憐《あわ》れな母は父が今でも社会的に昔通りの勢力をもっているとばかり信じていた。兄は兄だけに、社会から退隠したと同様の今の父に、その半分の影響さえむずかしいと云う事を見破っていた。
 兄と同意見の自分は、家族中ぐるになって、佐野を瞞《だま》しているような気がしてならなかった。けれどもまた一方から云えば、佐野は瞞されてもしかるべきだという考えが始めから頭のどこかに引っかかっていた。
 とにかく会見は満足のうちに済んだ。兄は暑いので脳に応《こた》えるとか云って、早く大阪を立ち退《の》く事を主張した。自分は固《もと》より賛成であった。

        六

 実際その頃の大阪は暑かった。ことに我々の泊っている宿屋は暑
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