いる代りに、場所の名や年月《としつき》を全く忘れてしまう癖があった。それで彼は平気でいた。
「どこだか解らなくっちゃつまらないわね」と嫂がまた云った。兄と嫂とはこんなところでよく喰い違った。兄の機嫌《きげん》の悪くない時はそれでも済むが、少しの具合で事が面倒になる例《ためし》も稀《まれ》ではなかった。こういう消息に通じた母は、「どこでも構わないが、それだけじゃないはずだったのにね。後《あと》を御話しよ」と云った。兄は「御母さんにも直《なお》にもつまらない事ですよ」と断って、「二郎そこの二階に泊ったとき面白いと思ったのはね」と自分に話し掛けた。自分は固《もと》より兄の話を一人で聞くべき責任を引受けた。
「どうしました」
「夜になって一寝入《ひとねいり》して眼が醒《さ》めると、明かるい月が出て、その月が青い柳を照していた。それを寝ながら見ているとね、下の方で、急にやっという掛声が聞こえた。あたりは案外静まり返っているので、その掛声がことさら強く聞こえたんだろう、おれはすぐ起きて欄干《らんかん》の傍《そば》まで出て下を覗《のぞ》いた。すると向《むこう》に見える柳の下で、真裸《まっぱだか》な男
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