「今夜は御止《およ》しよ」と母が留《と》めた。
 兄は寝転《ねころ》びながら話をした。そうして口では大阪を知ってるような事を云った。けれどもよく聞いて見ると、知っているのは天王寺《てんのうじ》だの中の島だの千日前《せんにちまえ》だのという名前ばかりで地理上の知識になると、まるで夢のように散漫|極《きわ》まるものであった。
 もっとも「大坂城の石垣の石は実に大きかった」とか、「天王寺の塔の上へ登って下を見たら眼が眩《くら》んだ」とか断片的の光景は実際覚えているらしかった。そのうちで一番面白く自分の耳に響いたのは彼の昔|泊《とま》ったという宿屋の夜の景色であった。
「細い通りの角で、欄干《らんかん》の所へ出ると柳が見えた。家が隙間《すきま》なく並んでいる割には閑静で、窓から眺《なが》められる長い橋も画《え》のように趣《おもむき》があった。その上を通る車の音も愉快に響いた。もっとも宿そのものは不親切で汚なくって困ったが……」
「いったいそれは大阪のどこなの」と嫂が聞いたが、兄は全く知らなかった。方角さえ分らないと答えた。これが兄の特色であった。彼は事件の断面を驚くばかり鮮《あざや》かに覚えて
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