ゅう》を含んでいた。
「お貞さんだって、もう直《じき》ですよお母さん」と自分は横合から口を出した。
「本当にね」と母は答えた。母は腹の中で、まだ片づく当《あて》のないお重の事でも考えているらしかった。兄は自分を顧《かえり》みて、「三沢が病気だったので、どこへも行かなかったそうだね」と聞いた。自分は「ええ。とんだところへ引っかかってどこへも行かずじまいでした」と答えた。自分と兄とは常にこのくらい懸隔《かけへだて》のある言葉で応対するのが例になっていた。これは年が少し違うのと、父が昔堅気《むかしかたぎ》で、長男に最上の権力を塗りつけるようにして育て上げた結果である。母もたまには自分をさんづけにして二郎さんと呼んでくれる事もあるが、これは単に兄の一郎《いちろう》さんのお余りに過ぎないと自分は信じていた。
 みんなは話に気を取られて浴衣《ゆかた》を着換えるのを忘れていた。兄は立って、糊《のり》の強いのを肩へ掛けながら、「どうだい」と自分を促《うな》がした。嫂は浴衣を自分に渡して、「全体あなたのお部屋はどこにあるの」と聞いた。手摺《てすり》の所へ出て、鼻の先にある高い塗塀《ぬりべい》を欝陶《うっ
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