なし》をするうちに妙に引っ掛って来た。何の悪意もない彼には、最初いっこうその当こすりが通じなかったが、だんだん時間の進むに従って、彼らの本旨《ほんし》がようやく分って来た。
「馬鹿にもほどがあるね。露骨にいえばさ、あの娘さんを不幸にした原因は僕にある。精神病にしたのも僕だ、とこうなるんだね。そうして離別になった先の亭主は、まるで責任のないように思ってるらしいんだから失敬じゃないか」
「どうしてまたそう思うんだろう。そんなはずはないがね。君の誤解じゃないか」と自分が云った。
「誤解?」と彼は大きな声を出した。自分は仕方なしに黙った。彼はしきりにその親達の愚劣な点を述べたててやまなかった。その女の夫となった男の軽薄を罵《のの》しって措《お》かなかった。しまいにこう云った。
「なぜそんなら始めから僕にやろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当《めあて》にして……」
「いったい君は貰《もら》いたいと申し込んだ事でもあるのか」と自分は途中で遮《さえぎ》った。
「ないさ」と彼は答えた。
「僕がその娘さんに――その娘さんの大きな潤《うるお》った眼が、僕の胸を絶えず往来《ゆきき》するようになったのは、すでに精神病に罹《かか》ってからの事だもの。僕に早く帰って来てくれと頼み始めてからだもの」
彼はこう云って、依然としてその女の美しい大《おおき》な眸《ひとみ》を眼の前に描くように見えた。もしその女が今でも生きていたならどんな困難を冒《おか》しても、愚劣な親達の手から、もしくは軽薄な夫の手から、永久に彼女を奪い取って、己《おの》れの懐《ふところ》で暖めて見せるという強い決心が、同時に彼の固く結んだ口の辺《あたり》に現れた。
自分の想像は、この時その美しい眼の女よりも、かえって自分の忘れようとしていた兄の上に逆戻りをした。そうしてその女の精神に祟《たた》った恐ろしい狂いが耳に響けば響くほど、兄の頭が気にかかって来た。兄は和歌山行の汽車の中で、その女はたしかに三沢を思っているに違ないと断言した。精神病で心の憚《はばかり》が解けたからだとその理由までも説明した。兄はことによると、嫂《あによめ》をそういう精神病に罹《かか》らして見たい、本音を吐かせて見たい、と思ってるかも知れない。そう思っている兄の方が、傍《はた》から見ると、もうそろそろ神経衰弱の結果、多少精神に狂いを生じかけて、自分の方から恐ろしい言葉を家中に響かせて狂い廻らないとも限らない。
自分は三沢の顔などを見ている暇をもたなかった。
三十二
自分はかねて母から頼まれて、この次もし三沢の所へ行ったら、彼にお重を貰う気があるか、ないか、それとなく彼の様子を探って来るという約束をした。しかしその晩はどうしてもそういう元気が出なかった。自分の心持を了解しない彼は、かえって自分に結婚を勧めてやまなかった。自分の頭はまたそれに対して気乗《きのり》のした返事をするほど、穏かに澄んでいなかった。彼は折を見て、ある候補者を自分に紹介すると云った。自分は生返事をして彼の家を出た。外は十文字に風が吹いていた。仰ぐ空には星が粉《こ》のごとくささやかな力を集めて、この風に抵抗しつつ輝いた。自分は佗《わび》しい胸の上に両手を当てて下宿へ帰った。そうして冷たい蒲団《ふとん》の中にすぐ潜《もぐ》り込んだ。
それから二三日《にさんち》しても兄の事がまだ気にかかったなり、頭がどうしても自分と調和してくれなかった。自分はとうとう番町へ出かけて行った。直接兄に会うのが厭《いや》なので、二階へはとうとう上《あが》らなかったが、母を始め他《ほか》の者には無沙汰見舞《ぶさたみまい》の格で、何気なく例の通りの世間話をした。兄を交えない一家の団欒《だんらん》はかえって寛《くつろ》いだ暖かい感じを自分に与えた。
自分は帰り際《ぎわ》に、母をちょっと次の間へ呼んで、兄の近況を聞いて見た。母はこの頃兄の神経がだいぶ落ちついたと云って喜んでいた。自分は母の一言《いちごん》でやっと安心したようなものの、母には気のつかない特殊の点に、何だか変調がありそうで、かえってそれが気がかりになった。さればと云って、兄に会って自分から彼を試験しようという勇気は無論起し得なかった。三沢から聞いた兄の講義が一時変になった話も母には告げ得なかった。
自分は何も云う事のないのに、ぼんやり暗い部屋の襖《ふすま》の蔭《かげ》に寒そうに立っていた。母も自分に対してそこを動かなかった。その上彼女の方から自分に何かいう必要を認めるように見えた。
「もっともこの間少し風邪《かぜ》を引いた時、妙な囈語《うわごと》を云ったがね」と云った。
「どんな事を云いました」と自分は聞いた。
母はそれには答えないで、「なに熱のせいだから、心配する事はないんだよ
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