」と自分の問を打ち消した。
「熱がそんなに有ったんですか」と自分はさらに別の事を尋ねた。
「それがね、熱は三十八度か八度五分ぐらいなんだから、そんなはずはないと思って、お医者に聞いて見ると、神経衰弱のものは少しの熱でも頭が変になるんだってね」
医学の初歩さえ心得ない自分は始めてこの知識に接して、思わず眉《まゆ》をひそめた。けれども室《へや》が暗いので、母には自分の顔が見えなかった。
「でも氷で頭を冷したら、そのお蔭で熱がすぐ引いたんで安心したけれど……」
自分は熱の引かない時の兄が、どんな囈語を云ったか、それがまだ知りたいので、薄ら寒い襖の蔭に依然として立っていた。
次の間《ま》は電灯で明るく照されていた。父が芳江に何か云って調戯《からか》うたびに、みんなの笑う声が陽気に聞こえた。すると突然その笑い声の間から、「おい二郎」と父が自分を呼んだ。
「おい二郎、また御母さんに小遣《こづかい》でも強請《せび》ってるんだろう。お綱、お前みたように、そうむやみに二郎の口車に乗っちゃいけないよ」と大きな声で云った。
「いいえそんな事じゃありません」と自分も大きな声で負けずに答えた。
「じゃ何だい、そんな暗い所で、こそこそ御母さんを取《と》っ捉《つら》まえて話しているのは。おい早く光《あか》るい所へ面《つら》を出せ」
父がこう云った時、明るい室《へや》の方に集まったものは一度にどっと笑った。自分は母から聞きたい事も聞かずに、父の命令通り、はいと云って、皆《みん》なの前へ姿をあらわした。
三十三
それからしばらくの間は、B先生の顔を見ても、三沢の所へ遊びに行っても、兄の話はいっこう話題に上《のぼ》らなかった。自分は少し安心した。そうしてなるべく家《うち》の事を忘れようと試みた。しかし下宿の徒然《とぜん》に打ち勝たれるのが何より苦しいので、よく三沢の時間を潰《つぶ》しにこっちから押し寄せたり、また引っ張り出したりした。
三沢は厭《あ》きずにいつまでも例の精神病の娘さんの話をした。自分はこの異様なおのろけを聞くたびに、きっと兄と嫂《あによめ》の事を連想して自《おのず》から不快になった。それで、時々またかという様子を色にも言葉にも表わした。三沢も負けてはいなかった。
「君も君のおのろけを云えば、それで差引損得なしじゃないか」などと自分を冷かした。自分はもうちっとで彼と往来で喧嘩《けんか》をするところであった。
彼にはこういう風に、精神病の娘さんが、影身《かげみ》に添って離れないので、自分はかねて母から頼まれたお重の事を彼に話す余地がなかった。お重の顔は誰が見ても、まあ十人並以上だろうと、仲の善《よ》くない自分にも思えたが、惜《おし》い事に、この大切な娘さんとは、まるで顔の型が違っていた。
自分の遠慮に引き換えて、彼は平気で自分に嫁の候補者を推挙した。「今度《こんだ》どこかでちょっと見て見ないか」と勧めた事もあった。自分は始めこそ生《なま》返事ばかりしていたが、しまいは本気にその女に会おうと思い出した。すると三沢は、まだ機会が来ないから、もう少し、もう少し、と会見の日を順繰《じゅんぐり》に先へ送って行くので、自分はまた気を腐らした末、ついにその女の幻《まぼろし》を離れてしまった。
反対に、お貞さんの方の結婚はいよいよ事実となって現《あらわ》るべく、目前に近《ちかづ》いて来た。お貞さんは相応の年をしている癖に、宅中《うちじゅう》で一番|初心《うぶ》な女であった。これという特色はないが、何を云っても、じき顔を赤くするところに変な愛嬌《あいきょう》があった。
自分は三沢と夜更《よふけ》に寒い町を帰って来て、下宿の冷たい夜具に潜《もぐ》り込みながら、時々お貞さんの事を思い出した。そうして彼女もこんな冷たい夜具を引き担《かつ》ぎながら、今頃は近い未来に逼《せま》る暖かい夢を見て、誰も気のつかない笑い顔を、半《なか》ば天鵞絨《びろうど》の襟《えり》の裡《なか》に埋《うず》めているだろうなどと想像した。
彼女の結婚する二三日前に、岡田と佐野は、氷を裂くような汽車の中から身を顫《ふる》わして新橋の停車場《ステーション》に下りた。彼は迎えに出た自分の顔を見て、いようという掛声《かけごえ》をした。それから「相変らず二郎さんは呑気《のんき》だね」と云った。岡田は己《おの》れの呑気さ加減を自覚しない男のようにも思われた。
翌日番町へ行ったら、岡田一人のために宅中《うちじゅう》騒々しく賑《にぎわ》っていた。兄もほかの事と違うという意味か、別に苦《にが》い顔もせずに、その渦中《かちゅう》に捲込《まきこ》まれて黙っていた。
「二郎さん、今になって下宿するなんて、そんな馬鹿がありますか、家《うち》が淋《さび》しくなるだけじゃありませんか。ね
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