くて暑い空を、恐る恐る仰いで暮らした大阪の病院を憶《おも》い起すと、当時の彼と今の自分とは、ほとんど地を換えたと一般であった。
 彼はつい近頃父を失った結果として、当然一家の主人に成り済ましていた。Hさんを通してB先生から彼を使いたいと申し込まれた時も、彼はまず己《おの》れを後《のち》にするという好意からか、もしくは贅沢《ぜいたく》な択好《よりごの》みからか、せっかくの位置を自分に譲ってくれた。
 自分は電灯で照された彼の室を見廻して、その壁を隙間《すきま》なく飾っている風雅なエッチングや水彩画などについて、しばらく彼と話し合った。けれどもどういうものか、芸術上の議論は十分|経《た》つか経たないうちに自然と消えてしまった。すると三沢は突然自分に向って、「時に君の兄さんだがね」と云い出した。自分はここでもまた兄さんかと驚いた。
「兄がどうしたって?」
「いや別にどうしたって事もないが……」
 彼はこれだけ云ってただ自分の顔を眺めていた。自分は勢い彼の言葉とB先生の今朝の言葉とを胸の中《うち》で結びつけなければならなかった。
「そう半分でなく、話すなら皆《みん》な話してくれないか。兄がいったいどうしたと云うんだ。今朝もB先生から同じような事を聞かれて、妙な気がしているところだ」
 三沢は焦烈《じれ》ったそうな自分の顔をなお懇気《こんき》に見つめていたが、やがて「じゃ話そう」と云った。
「B先生の話も僕のもやっぱり同じHさんから出たのだろうと思うがね。Hさんのはまた学生から出たのだって云ったよ。何でもね、君の兄さんの講義は、平生から明瞭《めいりょう》で新しくって、大変学生に気受《きうけ》が好いんだそうだが、その明瞭な講義中に、やはり明瞭ではあるが、前後とどうしても辻褄《つじつま》の合わない所が一二箇所出て来るんだってね。そうしてそれを学生が質問すると、君の兄さんは元来正直な人だから、何遍も何遍も繰返して、そこを説明しようとするが、どうしても解らないんだそうだ。しまいに手を額へ当てて、どうも近来頭が少し悪いもんだから……とぼんやり硝子窓《ガラスまど》の外を眺めながら、いつまでも立っているんで、学生も、そんならまたこの次にしましょうと、自分の方で引き下がった事が、何でも幾遍もあったと云う話さ。Hさんは僕に今度長野(自分の姓)に逢《あ》ったら、少し注意して見るが好い。ことによると烈《はげ》しい神経衰弱なのかも知れないからって云ったが、僕もとうとうそれなり忘れてしまって、今君の顔を見るまで実は思い出せなかったのだ」
「そりゃいつ頃の事だ」と自分はせわしなく聞いた。
「ちょうど君の下宿する前後の事だと思っているが、判然《はっきり》した事は覚えていない」
「今でもそうなのか」
 三沢は自分の思い逼《せま》った顔を見て、慰めるように「いやいや」と云った。
「いやいやそれはほんに一時的の事であったらしい。この頃では全然平生と変らなくなったようだと、Hさんが二三日《にさんち》前僕に話したから、もう安心だろう。しかし……」
 自分は家《うち》を出た時に自分の胸に刻み込んだ兄との会見を思わず憶《おも》い出した。そうしてその折の自分の疑いが、あるいは学校で証明されたのではなかろうかと考えて、非常に心細くかつ恐ろしく感じた。

        三十一

 自分は力《つと》めて兄の事を忘れようとした。するとふと大阪の病院で三沢から聞いた精神病の「娘さん」を聯想《れんそう》し始めた。
「あのお嬢さんの法事には間に合ったのかね」と聞いて見た。
「間に合った。間に合ったが、実にあの娘さんの親達は失敬な厭《いや》な奴《やつ》だ」と彼は拳骨《げんこつ》でも振り廻しそうな勢いで云った。自分は驚いてその理由を聞いた。
 彼はその日三沢家を代表して、築地の本願寺の境内《けいだい》とかにある菩提所《ぼだいしょ》に参詣《さんけい》した。薄暗い本堂で長い読経《どきょう》があった後、彼も列席者の一人として、一抹《いちまつ》の香を白い位牌《いはい》の前に焚《た》いた。彼の言葉によると、彼ほどの誠をもって、その若く美しい女の霊前に額《ぬか》ずいたものは、彼以外にほとんどあるまいという話であった。
「あいつらはいくら親だって親類だって、ただ静かなお祭りでもしている気になって、平気でいやがる。本当に涙を落したのは他人のおれだけだ」
 自分は三沢のこういう憤慨を聞いて、少し滑稽《こっけい》を感じたが、表ではただ「なるほど」と肯《うけ》がった。すると三沢は「いやそれだけなら何も怒りゃしない。しかし癪《しゃく》に障《さわ》ったのはその後《あと》だ」
 彼は一般の例に従って、法要の済んだ後《あと》、寺の近くにある或る料理屋へ招待された。その食事中に、彼女の父に当る人や、母に当る女が、彼に対して談《は
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