れども、子供のうちから兄といっしょに育った自分には、彼の脳天を動きつつある雲の往来《ゆきき》がよく解った。
 自分は助け船が不意に来た嬉《うれ》しさを胸に蔵《かく》して兄の室《へや》を出た。出る時嫂は一面識もない眼下のものに挨拶でもするように、ちょっと頭を下げて自分に黙礼をした。自分が彼女からこんな冷淡な挨拶を受けたのもまた珍らしい例であった。

        二十九

 二三日してから自分はとうとう家を出た。父や母や兄弟の住む、古い歴史をもった家を出た。出る時はほとんど何事をも感じなかった。母とお重が別れを惜《おし》むように浮かない顔をするのが、かえって厭《いや》であった。彼らは自分の自由行動をわざと妨げるように感ぜられた。
 嫂《あによめ》だけは淋《さみ》しいながら笑ってくれた。
「もう御出掛。では御機嫌《ごきげん》よう。またちょくちょく遊びにいらっしゃい」
 自分は母やお重の曇った顔を見た後《あと》で、この一口の愛嬌を聞いた時、多少の愉快を覚えた。
 自分は下宿へ移ってからも有楽町の事務所へ例の通り毎日|通《かよ》っていた。自分をそこへ周旋してくれたものは、例の三沢であった。事務所の持主は、昔三沢の保証人をしていた(兄の同僚の)Hの叔父に当《あた》る人であった。この人は永らく外国にいて、内地でも相応に経験を積んだ大家であった。胡麻塩頭《ごましおあたま》の中へ指を突っ込んで、むやみに頭垢《ふけ》を掻き落す癖があるので、差《さ》し向《むかい》の間に火鉢《ひばち》でも置くと、時々火の中から妙な臭《におい》を立てさせて、ひどく相手を弱らせる事があった。
「君の兄さんは近来何を研究しているか」などとたびたび自分に聞いた。自分は仕方なしに、「何だか一人で書斎に籠《こも》ってやってるようです」と極《きわ》めて大体な答えをするのを例のようにしていた。
 梧桐《あおぎり》が坊主になったある朝、彼は突然自分を捕《とら》えて、「君の兄さんは近頃どうだね」とまた聞いた。こう云う彼の質問に慣れ切っていた自分も、その時ばかりは余りの不意打にちょっと返事を忘れた。
「健康はどうだね」と彼はまた聞いた。
「健康はあまり好い方じゃないです」と自分は答えた。
「少し気をつけないといけないよ。あまり勉強ばかりしていると」と彼は云った。
 自分は彼の顔を打ち守って、そこに一種の真面目《まじめ》な眉《まゆ》と眼の光とを認めた。
 自分は家を出てから、まだ一遍しか家《うち》へ行かなかった。その折そっと母を小蔭《こかげ》に呼んで、兄の様子を聞いて見たら「近頃は少し好いようだよ。時々裏へ出て芳江をブランコに載せて、押してやったりしているからね。……」
 自分はそれで少しは安心した。それぎり宅《うち》の誰とも顔を合わせる機会を拵《こしら》えずに今日《こんにち》まで過ぎたのである。
 昼の時間に一品料理を取寄せて食っていると、B先生(事務所の持主)がまた突然「君はたしか下宿したんだったね」と聞いた。自分はただ簡単に「ええ」と答えておいた。
「なぜ。家の方が広くって便利だろうじゃないか。それとも何か面倒な事でもあるのかい」
 自分はぐずついてすこぶる曖昧《あいまい》な挨拶《あいさつ》をした。その時|呑《の》み込んだ麺麭《パン》の一片《いっぺん》が、いかにも水気がないように、ぱさぱさと感ぜられた。
「しかし一人の方がかえって気楽かも知れないね。大勢ごたごたしているよりも。――時に君はまだ独身だろう、どうだ早く細君でももっちゃ」
 自分はB先生のこの言葉に対しても、平生の通り気楽な答ができなかった。先生は「今日は君いやに意気銷沈《いきしょうちん》しているね」と云ったぎり話頭を転じて、他《ほか》のものと愚にもつかない馬鹿話を始め出した。自分は自分の前にある茶碗の中に立っている茶柱を、何かの前徴のごとく見つめたぎり、左右に起る笑い声を聞くともなく、また聞かぬでもなく、黙然《もくねん》と腰をかけていた。そうして心の裡《うち》で、自分こそ近頃神経過敏症に罹《かか》っているのではなかろうかと不愉快な心配をした。自分は下宿にいてあまり孤独なため、こう頭に変調を起したのだと思いついて、帰ったら久しぶりに三沢の所へでも話に行こうと決心した。

        三十

 その晩三沢の二階に案内された自分は、気楽そうに胡坐《あぐら》をかいた彼の姿を見て羨《うらや》ましい心持がした。彼の室《へや》は明るい電灯と、暖かい火鉢《ひばち》で、初冬《はつふゆ》の寒さから全然隔離されているように見えた。自分は彼の痼疾《こしつ》が秋風の吹き募《つの》るに従って、漸々《ぜんぜん》好い方へ向いて来た事を、かねてから彼の色にも姿にも知った。けれども今の自分と比較して、彼がこうゆったり構えていようとは思えなかった。高
前へ 次へ
全130ページ中82ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング