づいておりますから」と嫂は答えていた。
五
母と兄夫婦の滞在日数は存外少いものであった。まず市内で二三日市外で二三日しめて一週間足らずで東京へ帰る予定で出て来たらしかった。
「せめてもう少しはいいでしょう。せっかくここまで出ていらしったんだから。また来るたって、そりゃ容易な事じゃありませんよ、億劫《おっくう》で」
こうは云うものの岡田も、母の滞在中会社の方をまるで休んで、毎日案内ばかりして歩けるほどの余裕は無論なかった。母も東京の宅《うち》の事が気にかかるように見えた。自分に云わせると、母と兄夫婦というからしてがすでに妙な組合せであった。本来なら父と母といっしょに来るとか、兄と嫂《あによめ》だけが連立《つれだ》って避暑に出かけるとか、もしまたお貞《さだ》さんの結婚問題が目的なら、当人の病気が癒《なお》るのを待って、母なり父なりが連れて来て、早く事を片づけてしまうとか、自然の予定は二通りも三通りもあった。それがこう変な形になって現れたのはどういう訳だか、自分には始めから呑《の》み込めなかった。母はまたそれを胸の中に畳込《たたみこ》んでいるという風に見えた。母ばかりではない、兄夫婦もそこに気がついているらしいところもあった。
佐野との会見は型《かた》のごとく済んだ。母も兄も岡田に礼を述べていた。岡田の帰った後でも両方共佐野の批評はしなかった。もう事が極って批評をする余地がないというようにも取れた。結婚は年の暮に佐野が東京へ出て来る機会を待って、式を挙げるように相談が調《ととの》った。自分は兄に、「おめでた過ぎるくらい事件がどんどん進行して行く癖に、本人がいっこう知らないんだから面白い」と云った。
「当人は無論知ってるんだ」と兄が答えた。
「大喜びだよ」と母が保証した。
自分は一言もなかった。しばらくしてから、「もっともこんな問題になると自分でどんどん進行させる勇気は日本の婦人にあるまいからな」と云った。兄は黙っていた。嫂は変な顔をして自分を見た。
「女だけじゃないよ。男だって自分勝手にむやみと進行されちゃ困りますよ」と母は自分に注意した。すると兄が「いっそその方が好いかも知れないね」と云った。その云い方が少し冷《ひやや》か過ぎたせいか、母は何だか厭《いや》な顔をした。嫂もまた変な顔をした。けれども二人とも何とも云わなかった。
少し経《た》ってから母はようやく口を開いた。
「でも貞だけでもきまってくれるとお母さんは大変|楽《らく》な心持がするよ。後《あと》は重《しげ》ばかりだからね」
「これもお父さんの御蔭《おかげ》さ」と兄が答えた。その時兄の唇《くちびる》に薄い皮肉の影が動いたのを、母は気がつかなかった。
「全くお父さんの御蔭に違ないよ。岡田が今ああやってるのと同じ事さ」と母はだいぶ満足な体《てい》に見えた。
憐《あわ》れな母は父が今でも社会的に昔通りの勢力をもっているとばかり信じていた。兄は兄だけに、社会から退隠したと同様の今の父に、その半分の影響さえむずかしいと云う事を見破っていた。
兄と同意見の自分は、家族中ぐるになって、佐野を瞞《だま》しているような気がしてならなかった。けれどもまた一方から云えば、佐野は瞞されてもしかるべきだという考えが始めから頭のどこかに引っかかっていた。
とにかく会見は満足のうちに済んだ。兄は暑いので脳に応《こた》えるとか云って、早く大阪を立ち退《の》く事を主張した。自分は固《もと》より賛成であった。
六
実際その頃の大阪は暑かった。ことに我々の泊っている宿屋は暑かった。庭が狭いのと塀《へい》が高いので、日の射し込む余地もなかったが、その代り風の通る隙間《すきま》にも乏しかった。ある時は湿《しめ》っぽい茶座敷の中で、四方から焚火《たきび》に焙《あぶ》られているような苦しさがあった。自分は夜通《よどお》し扇風器をかけてぶうぶう鳴らしたため、馬鹿な真似をして風邪《かぜ》でもひいたらどうすると云って母から叱られた事さえあった。
大阪を立とうという兄の意見に賛成した自分は、有馬《ありま》なら涼しくって兄の頭によかろうと思った。自分はこの有名な温泉をまだ知らなかった。車夫が梶棒《かじぼう》へ綱を付けて、その綱の先をまた犬に付けて坂路を上《のぼ》るのだそうだが、暑いので犬がともすると渓河《たにがわ》の清水《しみず》を飲もうとするのを、車夫が怒《いか》って竹の棒でむやみに打擲《うちたた》くから、犬がひんひん苦しがりながら俥《くるま》を引くんだという話を、かつて聞いたまましゃべった。
「厭《いや》だねそんな俥に乗るのは、可哀想《かわいそう》で」と母が眉《まゆ》をひそめた。
「なぜまた水を飲ませないんだろう。俥が遅れるからかね」と兄が聞いた。
「途中で水を飲む
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