と疲れて役に立たないからだそうです」と自分が答えた。
「へえー、なぜ」と今度は嫂《あによめ》が不思議そうに聞いたが、それには自分も答える事ができなかった。
 有馬行《ありまゆき》は犬のせいでもなかったろうけれども、とうとう立消《たちぎえ》になった。そうして意外にも和歌《わか》の浦《うら》見物が兄の口から発議《ほつぎ》された。これは自分もかねてから見たいと思っていた名所であった。母も子供の時からその名に親しみがあるとかで、すぐ同意した。嫂だけはどこでも構わないという風に見えた。
 兄は学者であった。また見識家《けんしきか》であった。その上詩人らしい純粋な気質を持って生れた好い男であった。けれども長男だけにどこかわがままなところを具えていた。自分から云うと、普通の長男よりは、だいぶ甘やかされて育ったとしか見えなかった。自分ばかりではない、母や嫂に対しても、機嫌《きげん》の好い時は馬鹿に好いが、いったん旋毛《つむじ》が曲り出すと、幾日《いくか》でも苦い顔をして、わざと口を利《き》かずにいた。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変ったように、たいていな事があっても滅多《めった》に紳士の態度を崩《くず》さない、円満な好侶伴《こうりょはん》であった。だから彼の朋友はことごとく彼を穏《おだや》かな好い人物だと信じていた。父や母はその評判を聞くたびに案外な顔をした。けれどもやっぱり自分の子だと見えて、どこか嬉《うれ》しそうな様子が見えた。兄と衝突している時にこんな評判でも耳に入ろうものなら、自分はむやみに腹が立った。一々その人の宅《うち》まで出かけて行って、彼らの誤解を訂正してやりたいような気さえ起った。
 和歌の浦行に母がすぐ賛成したのも、実は彼女が兄の気性《きしょう》をよく呑み込んでいるからだろうと自分は思った。母は長い間わが子の我《が》を助けて育てるようにした結果として、今では何事によらずその我《が》の前に跪《ひざまず》く運命を甘んじなければならない位地《いち》にあった。
 自分は便所に立った時、手水鉢《ちょうずばち》の傍《そば》にぼんやり立っていた嫂《あによめ》を見付《めっ》けて、「姉さんどうです近頃は。兄さんの機嫌《きげん》は好い方なんですか悪い方なんですか」と聞いた。嫂は「相変らずですわ」とただ一口答えただけであった。嫂はそれでも淋《さみ》しい頬に片靨《かたえくぼ》を寄せて見せた。彼女は淋しい色沢《いろつや》の頬をもっていた。それからその真中に淋しい片靨をもっていた。

        七

 自分は立つ前に岡田に借りた金の片《かた》をつけて行きたかった。もっとも彼に話をしさえすれば、東京へ帰ってからでも構わないとは思ったけれども、ああいう人の金はなるべく早く返しておいた方が、こっちの心持がいいという考えがあった。それで誰も傍《そば》にいない折を見計らって、母にどうかしてくれと頼んだ。
 母は兄を大事にするだけあって、無論彼を心《しん》から愛していた。けれども長男という訳か、また気むずかしいというせいか、どこかに遠慮があるらしかった。ちょっとの事を注意するにしても、なるべく気に障《さわ》らないように、始めから気を置いてかかった。そこへ行くと自分はまるで子供同様の待遇を母から受けていた。「二郎そんな法があるのかい」などと頭ごなしにやっつけられた。その代りまた兄以上に可愛《かわい》がられもした。小遣《こづかい》などは兄にないしょでよく貰った覚《おぼえ》がある。父の着物などもいつの間にか自分のに仕立直してある事は珍らしくなかった。こういう母の仕打が、例の兄にはまたすこぶる気に入らなかった。些細《ささい》な事から兄はよく機嫌《きげん》を悪くした。そうして明るい家の中《うち》に陰気な空気を漲《みな》ぎらした。母は眉《まゆ》をひそめて、「また一郎の病気が始まったよ」と自分に時々|私語《ささや》いた。自分は母から腹心の郎党として取扱われるのが嬉しさに、「癖なんだから、放《ほう》っておおきなさい」ぐらい云って澄ましていた時代もあった。兄の性質が気むずかしいばかりでなく、大小となく影でこそこそ何かやられるのを忌《い》む正義の念から出るのだという事を後《あと》から知って以来、自分は彼に対してこんな軽薄な批評を加えるのを恥《は》ずるようになった。けれども表向《おもてむき》兄の承諾を求めると、とうてい行われにくい用件が多いので、自分はつい機会《おり》を見ては母の懐《ふところ》に一人|抱《だ》かれようとした。
 母は自分が三沢のために岡田から金を借りた顛末《てんまつ》を聞いて驚いた顔をした。
「そんな女のためにお金を使う訳がないじゃないか、三沢さんだって。馬鹿らしい」と云った。
「だけど、そこには三沢も義理があるんだから」と自分は弁解した。
「義理義理っ
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