が三人代る代る大《おおき》な沢庵石《たくあんいし》の持ち上げ競《くら》をしていた。やっと云うのは両手へ力を入れて差し上げる時の声なんだよ。それを三人とも夢中になって熱心にやっていたが、熱心なせいか、誰も一口も物を云わない。おれは明らかな月影に黙って動く裸体《はだか》の人影を見て、妙に不思議な心持がした。するとそのうちの一人が細長い天秤棒《てんびんぼう》のようなものをぐるりぐるりと廻し始めた……」
「何だか水滸伝《すいこでん》のような趣《おもむき》じゃありませんか」
「その時からしてがすでに縹緲《ひょうびょう》たるものさ。今日《こんにち》になって回顧するとまるで夢のようだ」
 兄はこんな事を回想するのが好であった。そうしてそれは母にも嫂《あによめ》にも通じない、ただ父と自分だけに解る趣であった。
「その時大阪で面白いと思ったのはただそれぎりだが、何だかそんな連想を持って来て見ると、いっこう大阪らしい気がしないね」
 自分は三沢のいた病院の三階から見下《みおろ》される狭い綺麗《きれい》な通を思い出した。そうして兄の見た棒使や力持はあんな町内にいる若い衆じゃなかろうかと想像した。
 岡田夫婦は約のごとくその晩また尋《たず》ねて来た。

        四

 岡田はすこぶる念入の遊覧目録といったようなものを、わざわざ宅《うち》から拵《こしら》えて来て、母と兄に見せた。それがまた余り綿密過ぎるので、母も兄も「これじゃ」と驚いた。
「まあ幾日《いくか》くらい御滞在になれるんですか、それ次第でプログラムの作り方もまたあるんですから。こっちは東京と違ってね、少し市を離れるといくらでも見物する所があるんです」
 岡田の言葉のうちには多少の不服が籠《こも》っていたが、同時に得意な調子も見えた。
「まるで大阪を自慢していらっしゃるようよ。あなたの話を傍《そば》で聞いていると」
 お兼さんは笑いながらこう云って真面目《まじめ》な夫に注意した。
「いえ自慢じゃない。自慢じゃないが……」
 注意された岡田はますます真面目になった。それが少し滑稽《こっけい》に見えたので皆《みん》なが笑い出した。
「岡田さんは五六年のうちにすっかり上方風《かみがたふう》になってしまったんですね」と母が調戯《からか》った。
「それでもよく東京の言葉だけは忘れずにいるじゃありませんか」と兄がその後《あと》に随《つ》いてまた冷嘲《ひやか》し始めた。岡田は兄の顔を見て、「久しぶりに会うと、すぐこれだから敵《かな》わない。全く東京ものは口が悪い」と云った。
「それにお重《しげ》の兄《あにき》だもの、岡田さん」と今度は自分が口を出した。
「お兼《かね》少し助けてくれ」と岡田がしまいに云った。そうして母の前に置いてあった先刻《さっき》のプログラムを取って袂《たもと》へ入れながら、「馬鹿馬鹿しい、骨を折ったり調戯われたり」とわざわざ怒った風をした。
 冗談《じょうだん》がひとしきり済むと、自分の予期していた通り、佐野の話が母の口から持ち出された。母は「このたびはまたいろいろ」と云ったような打って変った几帳面《きちょうめん》な言葉で岡田に礼を述べる、岡田はまたしかつめらしく改まった口上で、まことに行き届きませんでなどと挨拶《あいさつ》をする、自分には両方共|大袈裟《おおげさ》に見えた。それから岡田はちょうど好い都合だから、是非本人に会ってやってくれと、また会見の打ち合せをし始めた。兄もその話しの中に首を突込まなくっては義理が悪いと見えて、煙草を吹かしながら二人の相手になっていた。自分は病気で寝ているお貞《さだ》さんにこの様子を見せて、ありがたいと思うか、余計な御世話だと思うか、本当のところを聞いて見たい気がした。同時に三沢が別れる時、新しく自分の頭に残して行った美しい精神病の「娘さん」の不幸な結婚を聯想《れんそう》した。
 嫂《あによめ》とお兼さんは親しみの薄い間柄《あいだがら》であったけれども、若い女同志という縁故で先刻《さっき》から二人だけで話していた。しかし気心が知れないせいか、両方共遠慮がちでいっこう調子が合いそうになかった。嫂は無口な性質《たち》であった。お兼さんは愛嬌《あいきょう》のある方であった。お兼さんが十口《とくち》物をいう間に嫂は一口《ひとくち》しかしゃべれなかった。しかも種が切れると、その都度《つど》きっとお兼さんの方から供給されていた。最後に子供の話が出た。すると嫂の方が急に優勢になった。彼女はその小さい一人娘の平生を、さも興ありげに語った。お兼さんはまた嫂のくだくだしい叙述を、さも感心したように聞いていたが、実際はまるで無頓着《むとんじゃく》らしくも見えた。ただ一遍「よくまあお一人でお留守居《るすい》ができます事」と云ったのは誠らしかった。「お重さんによく馴《な》
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