れば承知しなかったが、この時に限ってそんな様子はちっとも見せなかった。
「うん考えている」と軽く云った。「君に打ち明けようか、打ち明けまいかと迷っていたところだ」と云った。
自分はその時彼から妙な話を聞いた。そうしてその話が直接「あの女」と何の関係もなかったのでなおさら意外の感に打たれた。
今から五六年前彼の父がある知人の娘を同じくある知人の家に嫁《よめ》らした事があった。不幸にもその娘さんはある纏綿《てんめん》した事情のために、一年|経《た》つか経たないうちに、夫の家を出る事になった。けれどもそこにもまた複雑な事情があって、すぐわが家に引取られて行く訳に行かなかった。それで三沢の父が仲人《なこうど》という義理合から当分この娘さんを預かる事になった。――三沢はいったん嫁《とつ》いで出て来た女を娘さん娘さんと云った。
「その娘さんは余り心配したためだろう、少し精神に異状を呈していた。それは宅《うち》へ来る前か、あるいは来てからかよく分らないが、とにかく宅のものが気がついたのは来てから少し経ってからだ。固《もと》より精神に異状を呈しているには相違なかろうが、ちょっと見たって少しも分らない。ただ黙って欝《ふさ》ぎ込んでいるだけなんだから。ところがその娘さんが……」
三沢はここまで来て少し躊躇《ちゅうちょ》した。
「その娘さんがおかしな話をするようだけれども、僕が外出するときっと玄関まで送って出る。いくら隠れて出ようとしてもきっと送って出る。そうして必ず、早く帰って来てちょうだいねと云う。僕がええ早く帰りますからおとなしくして待っていらっしゃいと返事をすれば合点《がってん》合点をする。もし黙っていると、早く帰って来てちょうだいね、ね、と何度でも繰返す。僕は宅《うち》のものに対してきまりが悪くってしようがなかった。けれどもまたこの娘さんが不憫《ふびん》でたまらなかった。だから外出してもなるべく早く帰るように心がけていた。帰るとその人の傍《そば》へ行って、立ったままただいまと一言《ひとこと》必ず云う事にしていた」
三沢はそこへ来てまた時計を見た。
「まだ時間はあるね」と云った。
三十三
その時自分はこれぎりでその娘さんの話を止《や》められてはと思った。幸いに時間がまだだいぶあったので、自分の方から何とも云わない先に彼はまた語り続けた。
「宅のものが
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