覚えていたかい」
「覚えているさ。この間会って、僕から無理に酒を呑まされたばかりだもの」
「恨《うら》んでいたろう」
 今まで横を向いてそっぽへ口を利《き》いていた三沢は、この時急に顔を向け直してきっと正面から自分を見た。その変化に気のついた自分はすぐ真面目な顔をした。けれども彼があの女の室に入った時、二人の間にどんな談話が交換されたかについて、彼はついに何事をも語らなかった。
「あの女はことによると死ぬかも知れない。死ねばもう会う機会はない。万一《まんいち》癒《なお》るとしても、やっぱり会う機会はなかろう。妙なものだね。人間の離合というと大袈裟《おおげさ》だが。それに僕から見れば実際離合の感があるんだからな。あの女は今夜僕の東京へ帰る事を知って、笑いながら御機嫌《ごきげん》ようと云った。僕はその淋《さび》しい笑を、今夜何だか汽車の中で夢に見そうだ」

        三十二

 三沢はただこう云った。そうして夢に見ない先からすでに「あの女」の淋しい笑い顔を眼の前に浮べているように見えた。三沢に感傷的のところがあるのは自分もよく承知していたが、単にあれだけの関係で、これほどあの女に動かされるのは不審であった。自分は三沢と「あの女」が別れる時、どんな話をしたか、詳しく聞いて見ようと思って、少し水を向けかけたが、何の効果もなかった。しかも彼の態度が惜しいものを半分|他《ひと》に配《わ》けてやると、半分無くなるから厭《いや》だという風に見えたので、自分はますます変な気持がした。
「そろそろ出かけようか。夜の急行は込むから」ととうとう自分の方で三沢を促《うな》がすようになった。
「まだ早い」と三沢は時計を見せた。なるほど汽車の出るまでにはまだ二時間ばかり余っていた。もう「あの女」の事は聞くまいと決心した自分は、なるべく病院の名前を口へ出さずに、寝転《ねころ》びながら彼と通り一遍の世間話を始めた。彼はその時|人並《ひとなみ》の受け答をした。けれどもどこか調子に乗らないところがあるので、何となく不愉快そうに見えた。それでも席は動かなかった。そうしてしまいには黙って河の流ればかり眺《なが》めていた。
「まだ考えている」と自分は大きな声を出してわざと叫んだ。三沢は驚いて自分を見た。彼はこういう場合にきっと、御前はヴァルガーだと云う眼つきをして、一瞥《いちべつ》の侮辱を自分に与えなけ
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