も入費がないんだから」
自分は情ない気がした。ああ云う浮いた家業をする女の平生は羨《うらや》ましいほど派出《はで》でも、いざ病気となると、普通の人よりも悲酸《ひさん》の程度が一層|甚《はなは》だしいのではないかと考えた。
「旦那《だんな》が付いていそうなものだがな」
三沢の頭もこの点だけは注意が足りなかったと見えて、自分がこう不審を打ったとき、彼は何の答もなく黙っていた。あの女に関していっさいの新智識を供給する看護婦もそこへ行くと何の役にも立たなかった。
「あの女」のか弱い身体《からだ》は、その頃の暑さでもどうかこうか持ち応《こた》えていた。三沢と自分はそれをほとんど奇蹟《きせき》のごとくに語り合った。そのくせ両人《ふたり》とも露骨を憚《はばか》って、ついぞ柱の影から室《へや》の中を覗《のぞ》いて見た事がないので、現在の「あの女」がどのくらい窶《やつ》れているかは空《むな》しい想像画に過ぎなかった。滋養浣腸《じようかんちょう》さえ思わしく行かなかったという報知が、自分ら二人の耳に届いた時ですら、三沢の眼には美しく着飾った芸者の姿よりほかに映るものはなかった。自分の頭にも、ただ血色の悪くない入院前の「あの女」の顔が描《えが》かれるだけであった。それで二人共あの女はもうむずかしいだろうと話し合っていた。そうして実際は双方共死ぬとは思わなかったのである。
同時にいろいろな患者が病院を出たり入ったりした。ある晩「あの女」と同じくらいな年輩の二階にいる婦人が担架《たんか》で下へ運ばれて行った。聞いて見ると、今日《きょう》明日《あす》にも変がありそうな危険なところを、付添の母が田舎《いなか》へ連れて帰るのであった。その母は三沢の看護婦に、氷ばかりも二十何円とかつかったと云って、どうしても退院するよりほかに途《みち》がないとわが窮状を仄《ほのめ》かしたそうである。
自分は三階の窓から、田舎へ帰る釣台を見下《みおろ》した。釣台は暗くて見えなかったが、用意の提灯《ちょうちん》の灯《ひ》はやがて動き出した。窓が高いのと往来が狭いので、灯は谷の底をひそかに動いて行くように見えた。それが向うの暗い四つ角を曲ってふっと消えた時、三沢は自分を顧《かえり》みて「帰り着くまで持てば好いがな」と云った。
二十五
こんな悲酸《ひさん》な退院を余儀なくされる患者があるかと思
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