わが室《へや》の中《うち》からその横顔をじっと見つめている事があった。
「あの女」の病勢もこっちの看護婦の口からよく洩《も》れた。――牛乳でも肉汁《ソップ》でも、どんな軽い液体でも狂った胃がけっして受けつけない。肝心《かんじん》の薬さえ厭《いや》がって飲まない。強いて飲ませると、すぐ戻してしまう。
「血は吐くかい」
三沢はいつでもこう云って看護婦に反問した。自分はその言葉を聞くたびに不愉快な刺戟《しげき》を受けた。
「あの女」の見舞客は絶えずあった。けれども外《ほか》の室《へや》のように賑《にぎや》かな話し声はまるで聞こえなかった。自分は三沢の室に寝ころんで、「あの女」の室を出たり入ったりする島田や銀杏返《いちょうがえ》しの影をいくつとなく見た。中には眼の覚《さ》めるように派出《はで》な模様の着物を着ているものもあったが、大抵は素人《しろうと》に近い地味《じみ》な服装《なり》で、こっそり来てこっそり出て行くのが多かった。入口であら姐《ねえ》はんという感投詞《かんとうし》を用いたものもあったが、それはただの一遍に過ぎなかった。それも廊下の端《はじ》に洋傘《こうもり》を置いて室の中へ入るや否や急に消えたように静かになった。
「君はあの女を見舞ってやったのか」と自分は三沢に聞いた。
「いいや」と彼は答えた。「しかし見舞ってやる以上の心配をしてやっている」
「じゃ向うでもまだ知らないんだね。君のここにいる事は」
「知らないはずだ、看護婦でも云わない以上は。あの女の入院するとき僕はあの女の顔を見てはっと思ったが、向うでは僕の方を見なかったから、多分知るまい」
三沢は病院の二階に「あの女」の馴染客《なじみきゃく》があって、それが「お前胃のため、わしゃ腸のため、共に苦しむ酒のため」という都々逸《どどいつ》を紙片《かみぎれ》へ書いて、あの女の所へ届けた上、出院のとき袴《はかま》羽織《はおり》でわざわざ見舞に来た話をして、何という馬鹿だという顔つきをした。
「静かにして、刺戟《しげき》のないようにしてやらなくっちゃいけない。室でもそっと入って、そっと出てやるのが当り前だ」と彼は云った。
「ずいぶん静じゃないか」と自分は云った。
「病人が口を利《き》くのを厭《いや》がるからさ。悪い証拠《しょうこ》だ」と彼がまた云った。
二十三
三沢は「あの女」の事を自分の予想
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