《の》んで胃病の虫を殺せば、飯なんかすぐ喰える。呑まなくっちゃ駄目だ」
 三沢は自暴《やけ》に酔ったあげく、乱暴な言葉まで使って女に酒を強《し》いた。それでいて、己れの胃の中には、今にも爆発しそうな苦しい塊《かたまり》が、うねりを打っていた。

      *       *       *       *

 自分は三沢の話をここまで聞いて慄《ぞっ》とした。何の必要があって、彼は己《おのれ》の肉体をそう残酷に取扱ったのだろう。己れは自業自得としても、「あの女」の弱い身体《からだ》をなんでそう無益《むやく》に苦めたものだろう。
「知らないんだ。向《むこう》は僕の身体を知らないし、僕はまたあの女の身体を知らないんだ。周囲《まわり》にいるものはまた我々二人の身体を知らないんだ。そればかりじゃない、僕もあの女も自分で自分の身体が分らなかったんだ。その上僕は自分の胃《い》の腑《ふ》が忌々《いまいま》しくってたまらなかった。それで酒の力で一つ圧倒してやろうと試みたのだ。あの女もことによると、そうかも知れない」
 三沢はこう云って暗然としていた。

        二十二

「あの女」は室《へや》の前を通っても廊下からは顔の見えない位置に寝ていた。看護婦は入口の柱の傍《そば》へ寄って覗《のぞ》き込むようにすれば見えると云って自分に教えてくれたけれども自分にはそれをあえてするほどの勇気がなかった。
 附添の看護婦は暑いせいか大概はその柱にもたれて外の方ばかり見ていた。それがまた看護婦としては特別|器量《きりょう》が好いので、三沢は時々不平な顔をして人を馬鹿にしているなどと云った。彼の看護婦はまた別の意味からして、この美しい看護婦を好く云わなかった。病人の世話をそっちのけにするとか、不親切だとか、京都に男があって、その男から手紙が来たんで夢中なんだとか、いろいろの事を探って来ては三沢や自分に報告した。ある時は病人の便器を差し込んだなり、引き出すのを忘れてそのまま寝込んでしまった怠慢《たいまん》さえあったと告げた。
 実際この美しい看護婦が器量の優《すぐ》れている割合に義務を重んじなかった事は自分達の眼にもよく映った。
「ありゃ取り換えてやらなくっちゃ、あの女が可哀《かわい》そうだね」と三沢は時々|苦《にが》い顔をした。それでもその看護婦が入口の柱にもたれて、うとうとしていると、彼は
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