と僕の知っている女かも知れない」
自分は驚かされた。しかしてっきり冗談《じょうだん》だろうと思った。けれども彼の眼はその反対を語っていた。そのくせ口元は笑っていた。彼は繰り返して「あの女」の眼つきだの鼻つきだのを自分に問うた。自分は梯子段《はしごだん》を上《のぼ》る時、その横顔を見たぎりなので、そう詳しい事は答えられないほどであった。自分にはただ背中を折って重なり合っているような憐《あわ》れな姿勢だけがありありと眼に映った。
「きっとあれだ。今に看護婦に名前を聞かしてやろう」
三沢はこう云って薄笑いをした。けれども自分を担《かつ》いでる様子はさらに見えなかった。自分は少し釣り込まれた気味で、彼と「あの女」との関係を聞こうとした。
「今に話すよ。あれだと云う事が確に分ったら」
そこへ病院の看護婦が「回診です」と注意しに来たので、「あの女」の話はそれなり途切《とぎ》れてしまった。自分は回診の混雑を避けるため、時間が来ると席を外《はず》して廊下へ出たり、貯水桶《ちょすいおけ》のある高いところへ出たりしていたが、その日は手近にある帽を取って、梯子段を下まで降りた。「あの女」がまだどこかにいそうな気がするので、自分は玄関の入口に佇立《たたず》んで四方を見廻した。けれども廊下にも控室にも患者の影はなかった。
二十
その夕方の空が風を殺して静まり返った灯《ひ》ともし頃、自分はまた曲りくねった段々を急ぎ足に三沢の室《へや》まで上《のぼ》った。彼は食後と見えて蒲団《ふとん》の上に胡坐《あぐら》をかいて大きくなっていた。
「もう便所へも一人で行くんだ。肴《さかな》も食っている」
これが彼のその時の自慢であった。
窓は三《みっ》つ共《とも》明け放ってあった。室が三階で前に目を遮《さえ》ぎるものがないから、空は近くに見えた。その中に燦《きら》めく星も遠慮なく光を増して来た。三沢は団扇《うちわ》を使いながら、「蝙蝠《こうもり》が飛んでやしないか」と云った。看護婦の白い服が窓の傍《そば》まで動いて行って、その胴から上がちょっと窓枠《まどわく》の外へ出た。自分は蝙蝠《こうもり》よりも「あの女」の事が気にかかった。「おい、あの事は解ったか」と聞いて見た。
「やっぱりあの女だ」
三沢はこう云いながら、ちょっと意味のある眼遣《めづか》いをして自分を見た。自分は「そうか
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