えばいつでも帰るさ」
「どうかそうしてくれ」
 自分は立って窓から真下を見下した。「あの女」はいくら見ていても門の外へ出て来なかった。
「日の当る所へわざわざ出て何をしているんだ」と三沢が聞いた。
「見ているんだ」と自分は答えた。
「何を見ているんだ」と三沢が聞き返した。

        十九

 自分はそれでも我慢して容易に窓側《まどぎわ》を離れなかった。つい向うに見える物干に、松だの石榴《ざくろ》だのの盆栽が五六|鉢《はち》並んでいる傍《そば》で、島田に結《い》った若い女が、しきりに洗濯ものを竿《さお》の先に通していた。自分はちょっとその方を見てはまた下を向いた。けれども待ち設けている当人はいつまで経《た》っても出て来る気色《けしき》はなかった。自分はとうとう暑さに堪《た》え切れないでまた三沢の寝床の傍へ来て坐《すわ》った。彼は自分の顔を見て、「どうも強情な男だな、他《ひと》が親切に云ってやればやるほど、わざわざ日の当る所に顔を曝《さら》しているんだから。君の顔は真赤《まっか》だよ」と注意した。自分は平生から三沢こそ強情な男だと思っていた。それで「僕の窓から首を出していたのは、君のような無意味な強情とは違う。ちゃんと目的があってわざと首を出したんだ」と少しもったいをつけて説明した。その代り肝心《かんじん》の「あの女」の事をかえって云い悪《にく》くしてしまった。
 ほど経《へ》て三沢はまた「先刻《さっき》は本当に何か見ていたのか」と笑いながら聞いた。自分はこの時もう気が変っていた。「あの女」を口にするのが愉快だった。どうせ強情な三沢の事だから、聞けばきっと馬鹿だとか下らないとか云って自分を冷罵するに違ないとは思ったが、それも気にはならなかった。そうしたら実は「あの女」について自分はある原因から特別の興味をもつようになったのだぐらい答えて、三沢を少し焦《じ》らしてやろうという下心さえ手伝った。
 ところが三沢は自分の予期とはまるで反対の態度で、自分のいう一句一句をさも感心したらしく聞いていた。自分も乗気になって一二分で済むところを三倍ほどに語り続けた。一番しまいに自分の言葉が途切れた時、三沢は「それは無論|素人《しろうと》なんじゃなかろうな」と聞いた。自分は「あの女」を詳《くわ》しく説明したけれども、つい芸者という言葉を使わなかったのである。
「芸者ならことによる
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