るので、単にそれを滑稽《こっけい》と解釈している兄さんにはおかしく響くのでしょう。おかしがられるのは、怒られるよりもよっぽどましですが、事実私の方ではもっと真面目《まじめ》なのでした。
「絶対に所有していたのだろう」と私はすぐ云い直しました。今度は兄さんも笑いませんでした。しかしまだ何とも答えません。口を開くのはやはり私の番でした。
「君は絶対絶対と云って、この間むずかしい議論をしたが、何もそう面倒な無理をして、絶対なんかに這入《はい》る必要はないじゃないか。ああいう風に蟹に見惚《みと》れてさえいれば、少しも苦しくはあるまいがね。まず絶対を意識して、それからその絶対が相対に変る刹那《せつな》を捕《とら》えて、そこに二つの統一を見出すなんて、ずいぶん骨が折れるだろう。第一人間にできる事か何だかそれさえ判然しやしない」
兄さんはまだ私を遮《さえぎ》ろうとはしません。いつもよりはだいぶ落ちついているようでした。私は一歩先へ進みました。
「それより逆《ぎゃく》に行った方が便利じゃないか」
「逆とは」
こう聞き返す兄さんの眼には誠が輝いていました。
「つまり蟹に見惚れて、自分を忘れるのさ。自分と対象とがぴたりと合えば、君の云う通りになるじゃないか」
「そうかな」
兄さんは心元《こころもと》なさそうな返事をしました。
「そうかなって、君は現に実行しているじゃないか」
「なるほど」
兄さんのこの言葉はやはり茫然《ぼうぜん》たるものでした。私はこの時ふと自分が今まで余計な事を云っていたのに気がつきました。実を云うと、私は絶対というものをまるで知らないのです。考えもしなかったのです。想像もした覚《おぼえ》がないのです。ただ教育の御蔭《おかげ》でそう云う言葉を使う事だけを知っていたのです。けれども私は人間として兄さんよりも落ちついていました。落ちついているという事が兄さんより偉いという意味に聞こえては面目ないくらいなものですから、私は兄さんより普通一般に近い心の状態をもっていたと云い直しましょう。朋友《ほうゆう》として私の兄さんに向って働きかける仕事は、だからただ兄さんを私のような人並な立場に引き戻すだけなのです。しかしそれを別な言葉で云って見ると非凡《ひぼん》なものを平凡《へいぼん》にするという馬鹿気た意味にもなって来ます。もし兄さんの方で苦痛の訴えがないならば、私のようなも
前へ
次へ
全260ページ中252ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング