そうして直《すぐ》にこの紅《べに》が谷《やつ》の小別荘に入りました。私はその前ちょっと国府津《こうづ》に泊って見るつもりで、暗《あん》に一人《ひとり》ぎめのプログラムを立てていたのですが、とうとう兄さんにはそれを云い出さずにしまったのです。国府津でもまた「二度とこんな所は御免《ごめん》だ」と怒られそうでしたから。その上兄さんは私からこの別荘の話を聞いて、しきりにそこへ落ちつきたがっていたのです。

        四十七

 何にでも刺戟《しげき》されやすい癖に、どんな刺戟にも堪《た》え切れないと云った風の、今の兄さんには、草庵《そうあん》めいたこの別荘が最も適していたのかも知れません。兄さんは物静かな座敷から、谷一つ隔てて向うの崖《がけ》の高い松を見上げた時、「好いな」と云ってそこへ腰をおろしました。
「あの松も君の所有だ」
 私は慰めるような句調で、わざと兄さんの口吻《こうふん》を真似て見せました。修善寺ではとんと解らなかった「あの百合《ゆり》は僕の所有だ」とか、「あの山も谷も僕の所有だ」とか云った兄さんの言葉を想《おも》い出したからです。
 別荘には留守番《るすばん》の爺《じい》さんが一人いましたが、これは我々と出違《でちがい》に自分の宅《うち》へ帰りました。それでも拭掃除《ふきそうじ》のためや水を汲むために朝夕《あさゆう》一度ぐらいずつは必ず来てくれます。男二人の事ですから、煮炊《にたき》は無論できません。我々は爺さんに頼んで近所の宿屋から三度三度食事を運んで貰う事にしました。夜は電灯の設備がありますから、洋灯《ランプ》を点《とも》す手数《てかず》は要《い》らないのです。こういう訳で、朝起きてから夜寝るまでに、我々の是非やらなければならない事は、まあ床を延べて蚊帳《かや》を釣るくらいなものです。
「自炊よりも気楽で閑静だね」と兄さんが云います。実際今まで通って来た山や海のうちで、ここが一番|静《しずか》に違ないのです。兄さんと差向いで黙っていると、風の音さえ聞こえない事があります。多少やかましいと思うのは珊瑚樹《さんごじゅ》の葉隠れにぎいぎい軋《きし》る隣の車井戸《くるまいど》の響ですが、兄さんは案外それには無頓着《むとんじゃく》です。兄さんはだんだん落ちついて来るようです。私はもっと早く兄さんをここへ連れて来れば好かったと思いました。
 庭先に少しばかりの
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